じつはたくさんある、疫病退散のまつり。疫病に見舞われてきた日本人の考え
私たちが住む日本列島は、長い歴史のなかで疫病に繰り返し見舞われてきました。そのたびに人々は、さまざまなかたちで疫病を食い止めようと神に祈りを捧げてきました。科学的思考が発達した現在においてもなお、不安に対して「祈る」という一見不合理な行為は、人々の心の拠り所としてたしかに存在します。そこで、古の人々が疫病に見舞われた社会のなかでどのようなことを考え、どんな対処をしてきたのか? また全国で開催されている、疫病退散を由来とするまつりをご紹介します。
コロナ禍に大流行した「アマビエ」。科学が行きわたった現在でも、未知の病への不安に対して「祈る」人々
コロナウイルスによる感染症禍が、私たちの日常を侵食し始めた2019年2月の末頃。SNSを通じて予言獣「アマビエ」が、お守り(護符)のようにもてはやされたていったことを忘れた人はいないと思います。
アマビエは江戸時代後期の弘化3年4月中旬(1846年5月上旬)に、肥後国(現・熊本県)に現れた得体の知れないもの。残されているのは次のような言い伝えです。
海中に毎夜光るものが出るので役人が行ってみると、アマビエは『私は海中に住むアマビエと申すものである。今年から6か年のあいだ諸国は豊作になる。しかし病が流行するから、早々に私を写して人々に見せよ』と告げて海中に戻った。そのようすは江戸にまで伝えられ、瓦版に描かれた姿は、長い髪でくちばしを持ち、体には鱗、脚の先は三つにわかれている――。
21世紀に再登場したときには、まず「#アマビエチャレンジ」というハッシュタグとともに、奇怪ながらも見ようによっては可愛い姿をモチーフにした数多くのイラスト、漫画や動画が投稿されました。
人々が感染症の流行下に、こうした一見不合理な力に頼ろうとすることは、歴史的に繰り返されてきたことです。科学的思考が行きわたったかに見える現在でも、未知の病に対処するには、近代的な医療・制度・規範だけでは不安なため、このような非合理的行為に依存するしかなかったのです。
疫病に苦しめられてきた日本。疱瘡やはしかは、疫病神に取り憑かれてかかると信じられてきた
私たちが住む日本列島は、感染症の流行(疫病)に繰り返し見舞われてきました。感染症は古代から中世・近世に至るまで、病原体の存在が知られていなかった時代には、もののけや怨霊、悪鬼など、目に見えない存在によってもたらされるものと信じられていたのです。
疫病は繰り返し蔓延し、大量死をもたらすこともありました。朝廷や豪族は疫病退散のために神仏を動員し、盛大にまつりを行なったり、社寺を創建したりしました。一方、庶民のあいだでは、村境に注連縄を張ったり、大きな草鞋や草履をかけたりして彼らの侵入を防ぎました。また社寺が授ける護符を貼り、絵馬を奉納して疫病神を退けようとする習俗は現在まで続いています。アマビエを奉った現象は、こうした心象の習俗の延長にあるとみて間違いではないでしょう。
疫病を流行させる悪神は疫病神(厄病神・疫神・厄神)と呼ばれてきました。こうした疫病神は、地位が低い悪神・悪霊だとみなされ、その対処法も見下したものでした。このため、疫病神を家に迎えて歓待し、病気から守護してもらうこともありました。
近世の日本で、死亡率の高さから大変恐れられたのが疱瘡(天然痘)やはしか(麻疹)です。疱瘡にかかるのは、疱瘡神に取り憑かれることが原因だと信じられ、罹患すると発疹が出て体が赤くなるので、疱瘡神自体も赤く、赤色を好むと想像されました。そこで江戸時代には、患者が寝起きする部屋の調度品や身につけるものを赤くしたり、病気の子どもを赤く塗った郷土玩具で遊ばせたり、「赤絵」と呼ばれる絵を身近なところにおいておくようなことが行われました。
はしかが流行した際、浮世絵師らによって描かれた「はしか絵」は、はしかの予防のための心得や、食べてよいもの悪いもの、日常生活の摂生、病後の養生法などを絵にし、またそうした書き込みが添えられています。はしか絵にみられるこうした機知やユーモアには、災難をどこか楽しみながら過ごそうとした近世人の民俗的叡智が込められているのです。
疫病や天災……災厄の除去を祈るために始まった京都「祇園祭」
日本のまつりには、疫病退散を起源とするものも多く存在します。京都・八坂神社の「祇園祭」もそのひとつです。
貞観5年(863年)、疫病が流行し、天災が相次いだため御所に接する天皇の庭園・神泉苑で「御霊会(ごりょうえ)」が行われました。その後も、富士山の噴火や貞観大地震などの大災害が襲ったことから、貞観11年6月14日に、当時の国の数である66本の鉾を造り、祇園社から神泉苑に神輿を送る「祇園御霊会」を催し、災厄の除去を祈りました。この祇園御霊会が夏の京都を彩る「祇園祭」の起源だとされています。
洛中を巡行する山鉾の装飾は絢爛であるほど、盛夏に蔓延する疫病を追い払うことになると観念されて豪華さを増していったのです。
疫病除けのまじないによくみられる「蘇民将来」とは何者?
八坂神社の境内にある疫神社には、蘇民将来命(そみんしょうらいのみこと)という神さまが祀られています。
現在の日本でも、「蘇民将来子孫之門」や「蘇民将来子孫繁昌也」などと書いた紙や板の札を家の戸口に貼り、疫病侵入を除けるまじないにしている地域があります。また各地の神社で6月末日(あるいは7月末日)の夏越の祓(なごしのはらえ)に設けられる「茅の輪くぐり」は、「茅の輪を身につけた人は病気にかからない」という蘇民将来伝承にもとづくもの。
このように疫病除けのまじないによくみられる蘇民将来とは、いったい何者でしょうか。
『備後国風土記』逸文によると、北海の神である武塔神が妻となる女性を探すため南海を訪れ、一夜の宿を請いました。富裕な弟の巨旦将来は断りましたが、貧しい兄の蘇民将来は武塔神を歓待。年月を経て後、巨旦一族を滅ぼした武塔神は、蘇民に対して「私は速須佐雄(はやすさのお)の神である。後の世に疫病があれば、『蘇民将来の子孫だ』と言い、茅の輪を腰に着けた人は免れる」と茅の輪の法を教えたといいます。
蘇民将来に対する信仰習俗は備後国の疫隈國社(えのくまのくにつやしろ / 広島県福山市)に発し、播磨明石浦、播磨広峰山、京都北白川東光寺を経て、祇園社、すなわち京都・八坂神社へと伝播していったのです。
疫病除けを祈願した、鹿児島県に伝わる「疱瘡踊り」
八坂神社の「祇園祭」と、そこから地方に広まった祭りのほかにも、疫病除けを祈願した芸能・習俗があります。
たとえば、鹿児島県に伝わる「疱瘡踊り」は、疱瘡の流行を静めるために踊られてきました。そのなかでも、鹿児島市花尾町の「岩戸疱瘡踊り」は、昔このあたりで天然痘が蔓延したことがあり、その予防と早い回復を願って踊られるようになったと言います。天然痘が絶滅したので、踊りも一時途絶えていましたが終戦後に復活。現在は、地域の行事や花尾神社の大祭、地区の文化祭などで踊られています。
薩摩川内市入来町の「入来疱瘡踊り」は、「めでたい、めでたい」という掛け声が特徴で、この掛け声は疫病神を打ち払わずに歓待し、満足して去ってもらう意味があるそうです。祝賀行事の際などに踊られてきましたが、2020年4月におよそ100年ぶりに、コロナ禍の疫病退散を祈って奉納されました。
疫病除けの全国のまつりの数々
八坂神社「祇園祭」
八坂神社の祇園祭は、祓いを中心とする夏祭りの形式の源流とされています。「祇園祭」は八坂神社や津島神社など、疫病退散の神である牛頭天王を祀っていた社を中心に、人やものの行き来が盛んな街道の夏に流行する疫病を祓う都市型の祭礼で、全国に分布します。
津島神社「尾張津島天王祭」
愛知県津島市の津島神社は、京都の八坂神社と並んで夏の疫病退散を祈る神社として広く知られています。7月第4土曜日とその翌日に行なわれる「尾張津島天王祭」は、5艘の巻藁船(提灯船)が天王川に漕ぎ出す宵祭り、車楽舟(だんじりぶね)と能人形を飾った5艘の車楽舟が出る「朝祭り」が勇壮かつ幻想的。
素盞雄神社「天王祭」
東京都荒川区南千住の素盞雄(すさのお)神社で、毎年6月3日に行なわれる「天王祭」は、参列者が半紙で包んだ胡瓜を奉納します。これは「胡瓜を輪切りにした断面が、祭神・素盞雄大神の神紋に見えることが恐れ多いので、その年の初物の胡瓜を自分たちが食する前に御神前に供える」という伝統を継承したものだといいます。
宇出津八坂神社「あばれ祭」
毎年7月第1金・土曜日に石川県鳳珠郡能登町の宇出津(うしつ)八坂神社で行なわれる「あばれ祭」。いまから350年前、この地で悪病が流行したため、京都の祇園社から牛頭天王を招請して盛大な祭礼を始めたところ、神霊と化した青蜂が悪疫病者を救ったといいます。そこで地元の人は、キリコ(お神輿のような担ぎ棒のついた巨大な灯籠)を担いで八坂神社へ詣でたのがこのまつりの始まりとされています。まつりの1日目は約40基のキリコが大松明の火の粉を浴びながら進み、2日目はキリコに加えて神輿も登場し、神輿が海や川、火のなかに投げ込まれたり、地面に叩きつけられたりします。
黒石寺「蘇民祭」
岩手県奥州市の黒石寺で旧正月の7日夜から8日朝にかけて行われる「蘇民祭」も、厳冬期の行事ですが、やはり蘇民将来の疫病除けに由来。裸の若者たちが押し合いながら蘇民袋を奪い合います。この袋のなかには「蘇民・将来・子孫・門戸・☆」と書いた小さな六角形の護符が入っていて、この袋を奪い取ったものが住んでいる方角が、その年、五穀豊穣の福運を授けられるといいます。
ほかにも、疫病をきっかけに行なわれるようになったまつりは少なくありません。大阪の「天神祭」は、天暦5年(951)に大阪天満宮の前の大川から神鉾を流し、漂着した場所に祭場を設けて疫病退散を祈った「鉾流」の神事を起源とします。「博多祇園山笠」も、仁治2年(1241)に博多で疫病が流行したとき、承天寺の開祖・聖一国師が、祈祷水をまきながら町を清めて回り、疫病退散を祈願したことが発祥だという説があります。
個人や家庭を単位とするささやかなまじないから、神社仏閣が街を巻き込んで催す大規模なまつりまで、私たちは疫病を避け、その恐怖を乗り越えるためさまざまな営為を続けてきたのです。
プロフィール
- 畑中章宏(はたなか あきひろ)
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作家・民俗学者・編集者・妖怪研究者
著書に『災害と妖怪』『天災と日本人』『21世紀の民俗学』『死者の民主主義』『蚕』『医療民俗学序説』『五輪と万博』『廃仏毀釈』『忘れられた日本憲法』ほか。