まつりの語源はなに?「食べること」との切っても切れない関係を解説
私たちの生活に欠かせない「食」。食はまつりの世界とも、切っても切れない深い関わりを持っています。民俗学者で國學院大學文学部教授の小川直之さんによれば、その背景を紐解いていくと、古代の日本人にとって「国家」とはなんだったのか、という理念にまで行き着くといいます。「政」を「まつりごと」という理由、そして「まつり」という言葉自体、人間が命をつなぐ食と深く結びついています。食の観点から見えてくる、まつりの本質を覗いてみましょう。
「政=まつりごと」の本質は、飢えのない世界をつくること—「食国」という思想
日本のまつりには、神仏や精霊たちに供える食べものや飲みもの、神仏とこれをまつる人たちとが一緒にいただく飲食物、さらにまつりに集う人たちへのもてなしの飲食物がつきものとなっています。まつりの時空は「食」とともにあるとさえいうことができ、また、食の在りようが特徴となっているまつりも多いものです。
こうしたまつりと食の結びつきは、正月や盆など家々でのまつりから地域社会の神社や寺院、祠堂、さらには大社や大寺のまつりなど幅広く見られますが、その源をたどっていくと、古代の「食国(をすくに)」という国家統治の理念に行き当たります。この理念は「政」を「まつりごと」ということ、そして「まつり」の原義は何かということとも結びついているのです。
「食国」という用語には、どのような意味があるのでしょうか? たとえば『万葉集』巻1の「藤原宮の役の民の作れる歌」には、「やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 あらたへの藤原が上に 食国を見し給はむと 都宮は 高知らさむと……」とあります。この長歌は、「尊い日の皇子であらせられるわが大君(天皇)が、新たに藤原の地で国をお治めになろうと気高い都としての宮をお建てになろうと」という意味です。同じく巻6では、筑紫(編注:現在の九州地方)に赴任していた大伴旅人が「やすみしし わが大君の 食国は 倭も此処も 同じとぞ思ふ」と詠んでいます。これは、「大和(編注:現在の奈良県)と筑紫は同じくわが大君が治める地である」という意味です。
また、『万葉集』に先だって和銅5年(712年)に成立している『古事記』の応神天皇紀では、応神天皇が「大山守命は山海の政(まつりごと)を為よ。大雀命は食国の政を執りて白し賜へ……」と、後の仁徳天皇となる皇子の大雀命に天下の政務をとることを命じています。
このように古代の「食国」は、天皇の支配領域、つまり「天皇に食物を献上する領域」ということからの表現と理解できます。そしてその統治行為が「政=まつりごと」ということ。国家統治の理念は「食」が中核となっていて、「政」とは、「天皇に食物を献上できる飢えのない世界を構築すること」だったといえるでしょう。
「まつり」の原義は「献り(まつり)」ということ
ここにいう「政=まつりごと」はいうまでもなく「祭りごと」であり、ここに「まつり」と「食」とが結びつく基本的な考え方があります。
その説明としてもっとも説得力があるのが、国文学・民俗学者であり歌人でもあった折口信夫(釋迢空)(1887〜1953)の見解です。折口は、神仏や精霊を「まつる」という「祭り」の原義は、神霊に食物を奉ることであり、その行為が「献(まつ)り」であるといいます。
具体的には、天皇は天の神から、食物をつくり採取して飢えのない世とすることを命じられ、これを実現するため、民に農作物などがよくとれるための呪詞や寿詞を宣旨として下す。これに従って民が農山漁業に励み、その結果として農山漁物を献上し、これを豊穣の姿として天皇に、そして天の神に捧げる——この循環こそが「まつり」であると説いています。つまり、こうした行為が滞りなくできるようにするのが「政」であるので、これを「まつりごと」という、というわけです。
「まつり」という言葉に、のちに日本に伝えられた漢字で「祭」「祀」をあてたのは、西暦100年頃の成立といわれる中国の字書『説文解字』の注釈書『説文通訓定声』に記された説明に拠っていると思われます。それは、「祭」「祀」とも「手に肉を持って神に捧げ薦めること」である、というものです。
「まつり」にほかの漢字が当てられている例としては、『日本書紀』の大化2年(643年)3月の条に、「棺は際会(ひまあいめ)に漆(うるしぬ)れ。奠(まつり)は三たび過飯(むけ)よ」とあります。「死者の棺の継ぎ目は漆を塗って塞ぎ、『奠』は3回手向けよ」という意味ですが、ここで「供物」の意味をもつ「奠」を「まつり」と読むのは、まつりとは供物をあげることだったからです。葬儀の「香典」は、お香を「奠」とするということで、本来「香奠」と書くのが正しいのですが、死者への「奠」にはお香だけではなく食べものもあり、これも「まつり」であるといえるでしょう。
なぜ日本のまつりは多種多様なのか? まつりの「仕組み」を知ればわかる
まつりに多種多様な食が伴うことの根源には、こうした「まつり」の原義に基づく「食国の政」の理念があります。この理念によるまつりの原理によれば、まつりのなかでは「献饌(けんせん)」と「直会(なおらい)」という祭儀が重要ということになります。
日本のまつりの姿もいろいろですが、神まつりの構成は基本的に、以下のような祭儀の順で成り立っています。
① 散斎(あらいみ・さんさい)・致斎(まいみ・ちさい)
② 神迎え
③ 献饌(神饌)
④ 神態(かみわざ)
⑤ 神幸(しんこう)
⑥ 神賑(しんしん・かみにぎわい)
⑦ 直会
⑧ 神送り
⑨ 致斎・散斎
まず、神を迎えての「まつり」には物忌み(精進潔斎)が必要です。緩やかな物忌みが「散斎」、厳格な物忌みが「致斎」とされており、これによって神の奉仕者と「まつり」の場が清らかとなります。
「神迎え」では、「まつり」の場である神庭に目印となる依代(よりしろ)を設け、ここに神を依り憑かせて迎えたり、神庭に奉仕者が神を招いたり、仮面・仮装の神が自ら来臨したりします。こうして迎えた神へのもてなしが「献饌」です。
続いて、「神態」は、神への祈願と神の意思表示。「神幸」は神輿などでの神の巡幸で、これも神の意思表示の一つです。さまざまな芸能の奉納である「神賑」は、神饌に加え、迎えた神を楽しませるためのものです。
そしてこのあとが、神と人とが食をともにする「直会」。その原則は、神への供物を場に集った者たちが一緒にいただくことであり、その代表が御神酒です。直会が終わると、「神送り」を行い、迎えた神にもとの世界に帰ってもらいます。そして、「致斎」「散斎」を経て日常生活に戻る、という流れです。
日本の「まつり」が多種で多様な姿になっているのは、「まつり」の目的に応じて、上記の構成のいずれかを重視して中心に据えたり、継承の過程でいずれかの祭儀を大きくしたりしたからといえるでしょう。いくつかの祭儀を組み合わせて大きくしている場合も多くあり、「まつり」の様相は複雑な内容となっています。
たとえばこのウェブサイト「まつりと」で紹介しているまつりでいえば、悪石島ボゼ祭り、宮古島パーントゥ、吉浜スネカ、上山カセドリなどは、いわゆる「来訪神」のまつりで、「神迎え」と「神態」の祭儀が中心です。小室浅間神社流鏑馬や那覇大綱挽、高山流鏑馬などは、いずれも卜占(うらない)が本義であり、「神態」を中心に据えたまつりといえるでしょう。越木岩だんじり祭りや、唐津くんち曳山行事、防府天満宮御神幸祭(裸坊祭)、秩父夜祭などは、神輿や山車・曳山を中心とした「神幸」のまつり。池川神楽、狭野神楽、祓川神楽、銀鏡神楽などは、先の①から⑨の祭儀を含むものの、中心となっているのは「神態」と「神賑」です。
沖縄県・宮古島のパーントゥ祭り
山口県・防府市 御神幸祭(裸坊祭)
食べ物の献饌(神饌)を中心とするまつりには、各地にある粥祭りや甘酒祭り、大飯行事など、飲食物の名前やその食べ方を名称とするものや、京都・伏見稲荷神社の「菜の花祭り」、京都・北野神社の「瑞饋(ずいき)祭り」(瑞饋は芋茎、里芋などの葉柄のこと)、京都北白川・天満宮の「御膳持ち」、大阪海老江・八坂神社の「御饗神事」、滋賀県日野町中山の「芋くらべ祭」などのように、特色ある神饌やその供え方によって名づけられたまつりがあります。
芋から米、猪まで。特色ある「食」を感じられるまつりの数々
一方で、まつりと食の関わりは、まつりの名称だけでとらえることはできません。さまざまなかたちで食と深い関わりを持っているまつりを、いくつか紹介します。
里芋に関連するまつり
千葉県館山市茂名の十二所神社のオビシャは、「里芋祭り」の別名を持ち、特定の家でつくった里芋を50センチメートルほどに積み上げて供えています。また、福岡県八女市星野村のいくつもの神社では、ツルノコという里芋を入れた「芋吸物」「鶴の子吸物」が直会に出ています。
「百味の御食」を供えるまつり
奈良県桜井市の談山神社の嘉吉祭では、「百味の御食(ひゃくみのおんじき)」と呼ばれる色づけした米と果実盛が供えられます。この名前の神饌は、京都府京丹後市の佐牙神社や宇治市の白山神社などにもあります。
「赤米」を大切にするまつり
私たちが食べる米が白米ばかりとなったのは明治時代末以降で、これ以前には色のついた米が各地でつくられていました。この色つき米のなかでとくに「赤米」を重視するまつりが、長崎県対馬市豆酘の頭受け神事、鹿児島県南種子町の宝満神社の御田植祭、岡山県総社市の本庄と新庄の国司神社の神事にあります。こうしたまつりからは、白米以前の稲作の姿がうかがえます。
宮崎県の「猪」に関連するまつり
宮崎県西都市の銀鏡神社の例大祭で斎行される銀鏡神楽では、神楽を舞う屋外の御神屋に祭壇が設けられ、ここには地元の猟師が射止めた猪の頭、ヤマドリなどが奉納されます。
銀鏡神楽
神楽自体は前述のように「神態」と「神賑」ですが、山間地という立地から狩猟も盛んで、生の猪頭やヤマドリを「オニエ」、つまり神々への「贄(にえ)」と呼んで供えているのです。そして、この猪肉は最後に「シシズーシー(猪雑炊)」というご飯に炊き込まれて振る舞われます。「贄」の振る舞いであり、この意味では直会といえるでしょう。
こうした例は宮崎県内にはいくつもあり、日南市の潮嶽(うしおだけ)神社の神楽では、神社名のとおり海の漁師と山の猟師が猪とマグロを奉納します。
神楽斎行の前には拝殿で「福種おろし」といって稲の種子が撒かれ、参列者はこれを神からの授かりものとして拾い集めて、自家の苗代に蒔きます。つまり、このまつりには海と山と里の幸が登場するということです。神前に奉納された猪頭の肉は、神事のあと境内の大鍋で煮て、「猪汁」として参集者に振る舞われます。
神や仏は絶対的な存在ではなく、人間と同じく飲食によって生きている
日本にはこのような、特色ある食を含むまつりの例が多くあります。それは最初に述べたように、「食国」「食国の政」の理念がまつりの根底に流れているからです。このことからは、日本人は神や仏を絶対的な存在とするのではなく、自分たちと同じように飲食によって生きていると考えてきたことがうかがえます。家の神棚や仏壇などに食べものや飲み物を供える心意は、ここにあるといえるでしょう。
まつりの食には、「贄」としての献饌、これをその場の神と人とが共食して生きる力を授かる直会、そしてまつりに集う人たちへの「もてなし」としての食があります。このもてなしの食は、その地域のハレの郷土食というのが特色で、全国各地にさまざまなもてなし食が伝えられています。
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プロフィール
- 小川直之(おがわ なおゆき)
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國學院大學文学部教授、民俗学博士、柳田國男記念伊那民俗学研究所長
1953年生まれ。國學院大學文学部教授、民俗学博士。柳田國男記念伊那民俗学研究所長。編著書に、『摘田稲作の民俗学的研究』(岩田書院)、『折口信夫・釋迢空―その人と学問―』(編著、おうふう)、『日本の歳時伝承』(角川ソフィア文庫)、『祭 Matsuri』(監修・パイ インターナショナル)など。