似ているようでまったく違う神輿と山車。意外と知らないその正体を解説

  • 執筆:大森重宜
  • 写真:芳賀ライブラリー
  • 編集:井戸沼紀美(CINRA, Inc.)

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大勢の人が豪華絢爛な神輿をかついだり、山車を曳いて街を練り歩いたりする光景は、日本のまつりを象徴するワンシーンです。しかし、存在を認知していても、その役割や背景を理解している人は意外と少ないのではないでしょうか。

今回の記事では、神職、そして陸上競技選手という異色の経歴を持つ金沢星稜大学の教授・大森重宜さんに案内人になっていただき、神輿と山車の違いといった基本情報から、「神輿を担ぐ」「山車を曳く」といった動作が生まれた背景、神輿と山車を楽しむのにおすすめのまつりまでをご紹介します。

千年以上も前に生まれた神々の「乗り物」が神輿

神輿は、一言で表すと神々が移動するための「乗り物」です。神輿が初めて記録されたのはいまから千年以上も前の749年(延暦13)、東大寺に宇佐八幡宮の神霊を迎えた際の記録が初見と言われています。これ以前の神霊の移動は人や馬によって行なわれていましたが、平安中期からの御霊信仰とともに、神霊が宿った神体や依り代などを神輿に移して移動する神幸式(しんこうしき)のまつりが主流となりました。

以降、神幸式のまつりとして、2基以上の神輿がぶつかりあう喧嘩祭や、神輿を川や海に入れる浜降祭、神輿洗い、かついだ神輿を振り動かす神輿振りなどが登場し、全国のまつりに伝播していきました。

神輿はふつう、屋根、胴、台輪という三つの部分から成りたっており、胴体を支える台に持ち手となる縦横二本の棒が取りつけられることで、人々が肩でかついだり、手でかついだりすることが可能になります。屋根の中央には鳳凰の飾り(鳳輦)や葱の花の飾り(葱花)を据え、屋根の端にはくるりとカーブした「蕨手」と呼ばれるパーツがついているなど、豪華な装飾が施されているのも特徴です。

山形県・寒河江まつりの神輿

元は疫病の流行を鎮めるため? 飾り物が巨大化して山車になるまで

山車は神輿の100年以上後、863年(貞観5)に始まった京都祇園祭の山鉾(やまぼこ)を起源とします。疫病の流行を鎮めるために始まった祇園祭では、祭場に、国に広がる疫神を表す66本の矛を立て、経典を講じ、子どもたちが舞う「童舞(わらわまい)」、雅楽のひとつである「舞楽」、中国大陸から伝来したとされる「散楽雑技」などが演じられました。

まつりの主役は、盆踊りの先行芸能とも言われる「風流拍子物(ふりゅうはやしもの)」です。風流拍子物とは、笠鉾(かさほこ、大きな傘の上に鉾・なぎなた・造花などを飾りつけたもの)などの造り物、仮装衆と呼ばれるパフォーマンスと、それを囃し立てる行列のこと。厳かな神事を行なうのではなく、楽しく神様を盛り上げる、いわゆる「神賑わい」により疫神を送り鎮めることを目的とし、疫神が乗り移るとされる造り物が趣向を競い合いました(参考リンク:マンネリを嫌い、変化し続ける「造り物」。庶民のユーモアが支える文化とは)。

この盛り上がりにより、本来は単なる飾り物であった造り物が大型化、華美化し、山・鉾に変化していったのが山鉾、山車の起源とされています。

京都・祇園祭の山鉾の様子 (C)下郷和郎/芳賀ライブラリー

都市の形成と治世にまつりは重要な役割を果たし、特に江戸の「天下祭」は大変な賑いをみせました。天下祭は現在の赤坂付近に位置する日枝山王神社のまつりと、神田明神のまつりを隔年で行なった催しです。このまつりは行列、仮装、造り物が混在するパレード、つまり「練り物」を中心としたものでした。

天下祭は「出シ(鉾などの先端を飾る造り物)」を乗せた笠舞、芸能を演じる芸屋台などにより華美化、大規模化して収拾がつかず、江戸幕府が規制や禁制を出すほど盛大なものに。しかし、「出シ」は神霊の依る鉾とされていたため、禁制から逃れることができたと考えられています。結果的にこの「出シ」の部分が練り物の屋台全体の名前となったものが「山車」なのです。

山車は神輿を賑わすための装置でもある

全国の山車まつりは江戸時代中期から後期の町人文化の成熟を基に発展しました。山車は疫神などを鎮送する役割を担っているほか、まつりの中心にある神輿を賑わすための装置でもあります。

例えば能登半島の「あばれ祭、石崎奉灯祭」に担ぎ出される巨大な燈籠・キリコ(奉灯)も、山車の一種。キリコを各地域で担ぎ巡り、キリコ上部に備えられた榊、幣串に疫神を招き、神輿が鎮座する御旅所へ向かいます。そして若衆は力の限りキリコを神輿の周りで担ぎ廻りその威勢を競い合います。疫神を鎮め送るため御旅所は海辺、川辺に定められています。人々がまつりを楽しめば楽しむほど神々の神威は上がりコミュニティーは団結し、さらに災害などに備えたのです。

あばれ祭の様子

日本人の身体から生まれた「担ぐ・曳く」の文化。古代オリンピックとの意外な類似性

ところで、日本人はなぜ神輿を担ぎ、山車を曳き廻してきたのでしょうか。前提として、モノを運ぶ身体技法はヒトの身体が生み出した特有の文化といえましょう。例えば西アフリカ内陸の人々は、頭上運搬が著しく発達しています。四肢、特に前腕と下腿が体幹に比して長いこと、骨盤が前傾していることなどに伴って、身体の骨格構造上、頭上運搬が容易になったのです。その結果、まつりでも人々はこの身体的特性を生かした儀式や踊りを披露します。

他方、欧州の人々は、肩と上腕が相対的に発達しており、腕や上体を伸展させる動作やボクシング、フェンシングなどの武術が得意です。逆に踵を地面につけてしゃがむことが困難で、作業時には肩から背の上部でものを支えます。

これに対し日本人の特徴として挙げられるのが、体幹に比して四肢が相対的に短いこと。そのため腕よりは腰を使い、腕を曲げて引きつける動作が発達しました。日本人が得意とするのは、しゃがむ姿勢や正座、肩で重心を支える棒運搬と、重心の低い背負い運搬です。つまり、まつりで神輿を担ぎ、山車を曳く動作も、日本人の身体が生み出した特有の文化と言えます。

鍛え上げた身体を力と技をもって神々に捧げるという意味では、ギリシアを中心にしたヘレニズム文化圏の祭典行事である古代オリンピックと日本のまつりにおける神賑行事(編注:人々の注目が神でなく人に向いている行事)は同意義といえましょう。

茨城県・大麻神社例大祭の山車

神輿・山車を見るのにおすすめのまつりは?

最後に、神輿・山車に注目したい日本のまつりをひとつずつ紹介します。まず神輿については、岩手県の大槌稲荷神社と小鎚神社による合同例大祭・大槌まつりがおすすめです。神輿の渡御にともない、大神楽、鹿子踊、虎舞、七福神、手踊りの行列が連なる光景や、それぞれの神社の神輿が川を渡る様子には一見の価値があるでしょう。神輿の渡御を中心として山車、諸芸能等をもって神賑わいが構成されており、厳粛性と人々の遊戯性の両面から非日常(ハレ)の空間をつくり上げています。

大槌まつりの様子

山車に注目のまつりとして外せないのは、京都祇園祭。山車のひとつとされる「山鉾」には、ペルシャ絨毯など豪華絢爛な懸装品が数多く用いられ、国内はもとよりシルクロードを通って遠く東アジアや中近東、そしてヨーロッパの美術工芸の「粋」が集結しています。このように祇園祭の山鉾は、古来の日本の伝統的装飾にこだわることのない雅と思いつきによる「造り物」なのです。「造り物」、そして山車には、変化やうつろいにこそ「美」を見出す「風流」の感性が欠かせません。

山車まつりは高度経済成長時の唯物的精神などによって、一時は衰退したとされます。しかしその後、まつりの文化化に伴う観光化によって再興されました。現在においても「山・鉾・屋台」を中心とする山車まつりは1,500もの数を数えることができます。今後も神輿の神幸式や山車まつりが継承されるために、神事的厳粛性と人々の遊戯性の高さをどう維持していくのかを考えていく必要がありそうです。

プロフィール

大森重宜

おおもり しげのり

金沢星稜大学人間科学部スポーツ学科教授。神職、陸上競技選手としての顔も持つ。早稲田大学教育学部、國學院大學文学部神道専攻科卒、日本体育大学大学院修士課程修了、早稲田大学スポーツ科学研究科博士課程後期(スポーツ科学博士)。

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